網走・歴史街道をゆく その4食糧難の戦後、発掘調査団は必死に世紀の大作業を行った。

遙か昔、それは今から1200年前のこと。
アムール川下流域から流氷に乗って、
網走などオホーツク沿岸へたどり着いた民がいました。
海獣を狩猟しながら豊かな文化を極めていた、流氷の民「オホーツク人」。
彼らの存在が明らかになったのは、1913年のことでした。
オホーツク文化の証である「モヨロ貝塚」が発見され、
北海道の古代史に新たなページが刻み込まれたのでした。

食糧難の戦後、発掘調査団は必死に
世紀の大作業を行った。

 青森県から網走へやって来た考古学好きな青年、米村喜男衛(きおえ)さんが1913年に網走川河口で見つけたもの。それは縄文系とは異なる土器や竪穴式住居…。 これこそオホーツク人が存在した証でした。
 米村さんはこの遺跡を「モヨロ貝塚」と名付け、理髪店を営む傍ら、遺跡の調査や資料の整理・分類作業に没頭してゆきました。 その後、米村さんの調査・整理による膨大な量の「モヨロ貝塚」出土資料は、1936年に開館された北見博物館に納められます。 こうして遺跡研究が進む中、「モヨロ貝塚」に危機が訪れます。戦争です。1941年に太平洋戦争が開戦すると、帝国海軍はモヨロ海岸に軍事施設の建設を計画。米村さんは勅令の「史跡名勝天然記念物保存法」を掲げて軍を説得しました。その熱意に文部省も動き、工事は着工直前で中止されたのです。
 米村さんの声は考古学学会にも届き、1947年に東大や北大からなる「モヨロ貝塚発掘調査団」が結成。米村さんがたった1人で続けてきた調査は、初めて大規模な発掘調査に飛躍しました。米村さんの長年の夢が、大きく前進した時だったでしょう。 しかし、時は戦後の食糧難時代。時には50人を超える調査隊員の食料がありません。 米村さんの妻、いささんが、毎日のように漁師や農家を訪ね歩き、必死で食べ物を集めていました。 世紀の前進であった調査団の活動は、食料不足と背中合わせの過酷な毎日だったと想像できます。
 第二次調査が終わりに近づこうとしていた1948年。米村さんを支え続けてきた妻、いささんが過労で倒れ、そして翌年の春に帰らぬ人となりました。米村さんはいささんに感謝しつつ、晩年まで遺跡研究に没頭したといわれています。

晩年になっても米村喜男衛さんの研究熱は衰えることはありませんでした。

流氷に乗ってやって来た謎のオホーツク人。
彼らは雄壮で賢明であった。

 米村さんが発見したオホーツク文化の遺跡は網走だけではなく、北海道のオホーツク海沿岸部一帯に続いており、さらに北は稚内、礼文島、利尻島、樺太南部まで。一方は国後島、択捉島など千島列島まで広く広がっています。これは流氷が接岸する地域であることから、オホーツク人は流氷に乗って移動した民ではなかったかと考えられています。 シャチやアザラシなど、海獣を狩猟して暮らしていたオホーツク人は、航海術も優れていたようです。 遺跡からは大陸製と思える金属製品も出土しています。 航海しながらラッコやアザラシの毛皮で交易を行っていたのでしょう。謎に包まれたオホーツク人ですが、雄壮で知恵に満ちた民だったと思われます。

マッコウクジラの牙で作られた置物。こうした出土品から、オホーツク人が海獣を狩猟していたことがうかがえます。

遺跡から出土したシャチ、アザラシなどの置物。

資料館ジャッカ・ドフニ

「ジャッカ・ドフニ」とはウイルタ語で「大切なものを収める家」の意味。戦後サハリンからオホーツク沿岸に、ウイルタなどの北方少数民族が渡って来ました。この資料館には、そうした民族の生活文化が展示されています。

網走市大曲2-96 TEL:0152-43-1149
■営:10時~16時30分(5~10月の土・日)※平日は要予約
■休:11月1日~4月30日 料金:大人300円、中学生以下200円