松浦武四郎の足跡に触れる、遅き春の阿寒湖散歩。

ゆっくりとした雪解けの時を経て、阿寒の森も日に日に春の気配を色濃くしています。
今から150年前の春。和人未踏の未開地だったこの阿寒湖周辺に、初めて足を踏み入れた人。それが松浦武四郎です。
幕末から明治時代に活動した探検家は、当時蝦夷地と呼ばれた北海道を調べ歩き、
安政5年(1858年)春に、アイヌの案内人とともにこの阿寒湖周辺へとやって来たのです。
武四郎の目に、春萌ゆる阿寒は、どのように映ったのでしょう。
北海道人(※)・松浦武四郎の目と心で、「ボッケ 森のこみち」を散策してみませんか?

未だ見ぬ阿寒湖の美しさに心躍らせた武四郎。

 武四郎が阿寒湖を訪れたのは1858年の旧暦3月27日。新暦では5月27日ですから、ちょうどミズバショウや薄いピンク色のエゾオオサクラソウ、濃いピンク色のクリンソウなどが咲き誇っていたころでしょうか。武四郎が道東探検によって著した「久摺(くすり)日誌」には、「アイヌの人々から聞くところによると、久摺(現在の阿寒国立公園)の大自然美は相当なものらしい。しかし未だこの地を探検した者はないという。これは自らを奮い立たせて挑もうと、案内役のアイヌなど9名と釧路を出発し山へと入った」という内容の、旅立ち当時の心情が書かれています。

阿寒湖を小舟で渡り、滝口やボッケも探査。

 武四郎の日誌には、必ずアイヌ部落の戸数や住民の名が記されていますが、阿寒湖畔についてはその記述がなかったとされています。150年前の阿寒湖畔はまだアイヌの人々も住まない、無人の地だったのかもしれません。しかしながら他地域アイヌの人々の往来は多いようだと書かれています。
 さらに武四郎は、阿寒湖を小舟で渡って4島をめぐり、滝口付近も探訪しています。また、原生林を歩いて、ふつふつと湧くボッケを見たり…。そうした感動の数々を、武四浪は漢詩に詠んでおり、その漢詩碑が「ボッケ 森のこみち」にたたずんでいます。

阿寒湖美味と温泉、景勝。武四郎も阿寒湖を堪能?

「久摺日誌」の中には、「阿寒湖にはウグイやアメマス、ヒメマスが多い」と書かれており、さらには「土地の者が四尺ほどのヲヘライベ(イトウの一種)を持ってきた」「従者が鹿を狩ってきた」という記述も…。武四郎たち探検隊は、厳しい探訪の日々ながらも阿寒湖での滞在中には、たぐいまれな景勝といで湯、そして豊かなごちそうに癒されたのではないでしょうか。時を経てもなお変わらぬ魅力を放つ阿寒湖で、武四郎が感じた遅き春を探訪してください。

「ボッケ 森のこみち」に建立されている武四郎の漢詩碑。「水面風収夕照間 小舟棹支沿崖還 怱落銀峯千仞影 是吾昨日新攀山」と刻まれています。
大意は=「夕方になり、湖面も波立たない静かな中、周辺の崖に沿って小舟を動かしていると、雪をかぶった美しい雄阿寒岳の雄大な姿が、影となって湖面におとしているではないか。この山こそ、わたしが昨日登った山なのだ。」です。

松浦 武四郎

松浦武四郎

1818年~1888年
1844年に蝦夷地(現在の北海道)探検に出発し、後の1855年には幕命により再び蝦夷地を踏査しました。

武四郎がアイヌの人々から聞き調べた地名は、明治政府に選定され現在まで使われています。また、北海道」の名称も武四郎による命名。
「北海道人(※)」とは武四郎の雅号で、蝦夷地はもともとアイヌの人々に「かい」と呼ばれていたことから、「かい=海」とういう意味を残しておきたかったのだろうといわれています。